ふだん何気なく辞書で目にする発音記号。実はこの記号たち、約140年前のパリで、語学の先生たちが立ち上げた小さな団体から生まれました。今回は、発音記号がどこから来たのかをたどる読み物です。
19世紀の終わり、ヨーロッパでは外国語教育の見直しが盛んでした。「文法と訳読ばかりでなく、音から言葉を学ぶべきだ」という新しい流れの中で、1886年、フランスの言語学者ポール・パシーを中心とする語学教師のグループがパリで団体を作ります。これがのちの国際音声学協会(International Phonetic Association)です。
彼らの動機は、とても実践的なものでした。生徒に英語やフランス語の「本当の音」を教えたい。でもスペルは音とズレだらけ。だったら——音そのものを書き表せる共通の文字を作ってしまおう。そうして1888年に公表されたのが、国際音声記号(IPA)の最初のバージョンです。
IPAの中身は、たった1つの原則に支えられています。1つの音には1つの記号、1つの記号には1つの音。
当たり前に聞こえますが、これは英語のスペルが捨ててしまったものです。同じ「ough」が through・tough・thought でぜんぶ違う音になる世界に対して、IPAは「音の側」から座標を振り直しました。舌の位置、唇の形、声帯のふるえ——口の中のどこで・どうやって出す音かで記号を整理したのです。
この「音の地図」という設計のおかげで、IPAは英語専用ではなく、世界中のどの言語の音でも書き表せる方式になりました。
IPAを英語教育の標準にした立役者が、イギリスの音声学者ダニエル・ジョーンズです。彼が1917年に出した英語発音辞典は、英単語の発音をIPAで示す方式を確立し、その流れが世界中の英語辞書に受け継がれました。日本の英和辞典や教科書の発音記号も、この系譜の上にあります。
IPA自体も止まった規格ではなく、国際音声学協会によって改訂を重ねながら、現在まで更新され続けています。140年前の道具が、いまも世界中の辞書アプリの中で動いている——なかなかのロングセラーだと思いませんか。
IPAが「口の中の地図」なら、地図の読み方を覚える一番の近道は、実際の口の中を見てしまうことです。
ウゴクチは、英語の39音それぞれについて、舌と口の動きを断面模型にしました。記号と口の動きをセットで確かめれば、140年前の先生たちがやりたかったこと——「音そのものを伝える」——を、指先でなぞれます。
この記事の歴史記述は、国際音声学協会の公刊資料に基づく一般的な通史をやさしく再構成したものです。年号・人名は監修時に再確認します。